2009年06月29日

中国の歴史は絶え間ない民族

中国の歴史は絶え間ない民族・人種の混合であった。古くは殷周交代にまでその傾向を見ることができる。当時中原に住み、より東方起源と推定される殷族と西方からやってきた周族が混交し、今にいう漢民族の母胎ができあがったのだが、その母胎はすぐに秦族に撹乱された。また、春秋戦国時代の国家である楚、越も中原とは多分に異なる民族であったと考えられている。

また中国は4世紀頃から北方の遊牧民族に北部を支配されるが、その過程で多分に北方民族の血が混ざっている。日本の学界では唐王朝の皇帝の一族もまた鮮卑系の北方民族に近いものであると考えられている。
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一方騎馬民族に押されて南下していった漢族らも、タイ族の原住民と混交していったと考えられる。

いわゆる漢民族と現在カテゴライズできる人口は、唐代ごろまでに現在の中国内地まで拡張し、その後は国家の繁栄と戦乱に伴って同領域内で大きく増減を繰り返すにとどまった。これは清代中期までは江南・湖広の生産力にまだまだ人口を支える余力があったこと、明・清王朝は長らく海禁政策を採用したこととが大きな理由としてあげられる。加えて異民族王朝である清朝は満州(現在の中国東北部)・内モンゴル・新疆などへの漢族の移動まで禁じ、意識して漢民族の膨張を抑止しようとした。


2009年06月10日

音楽療法(おんがくりょうほう music therapy)は

音楽療法(おんがくりょうほう music therapy)は、音楽を聞いたり演奏したりする際の生理的・心理的・社会的な効果を応用して、心身の健康の回復、向上をはかる行為。歌唱や演奏を行う能動的音楽療法と音楽を聴くなどの受動的音楽療法の2つに分かれる。
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一方、音楽療法を現代的な意味での医療とは区別される、代替医療 Alternative Medicine あるいは補完医療 Complementary Medicine(いずれも「現代西洋医学領域において、科学的未検証および臨床未応用の医学・医療体系の総称」と定義される)のひとつに位置づける立場もある。

バリー・キャシレスは、『代替医療ガイドブック』において「音楽療法は立証済みの補完療法であり、多くの病状や問題に効果を上げている。治癒力はなく、いくつかの補完療法のように、重大疾患の治療法として勧められることもない。しかし、優れた補完医療法の例にもれず、幸福感や生活の質を高め、症状を軽減し、初期治療やリハビリテーションの効果を高めてくれる」

創成期 [編集]
宗教(原始宗教、自然崇拝など)の誕生と同時に音楽は生まれ、儀式や呪術に用いられた。これにより人びとの精神を鼓舞したり一種のトランス状態(憑依障害)を引き起こしたりする。

ユダヤ、キリスト教の賛歌などにおいても音楽は用いられ、これも信仰を深め、精神的な豊かさを深耕することにより現代にも引き継がれている。

治療効果も古くから知られ、ダビデはサウルのうつ病を竪琴で治したとされる(旧約聖書『サムエル記』上16.14?23)。

発展期 [編集]
第二次世界大戦により大量の傷病兵を出した米国は野戦病院において音楽を流し、ないし演奏してみたところ兵士の治癒が早まった。その後米国を中心として音楽による治療効果が立証される(1830年ディーサンズ (Diserens) ら)。

現在 [編集]
各地で高齢者ケア、引きこもり児童のケアなどの現場で活発に活動が展開されており、岐阜県音楽療法研究所を嚆矢として自治体、大学でそのための研修、研究機関を設けるところも出てきた。公的機関の認定として奈良市・岐阜県・兵庫県が独自の市及び県認定音楽療法士という資格を出している。現在の主流は日本音楽療法学会認定の音楽療法士(MT、Music Therapist)という資格である。

対象 [編集]
高齢者、発達障害者、身体障害者、不登校児、幼児、薬物乱用者、高次脳機能障害者、他。

2009年06月07日

運用年限は3年程度で、製造から5年以上経過

運用年限は3年程度で、製造から5年以上経過すると素材が経年と共に自然劣化して防弾機能が低下してしまう。実際に警察や民間などで更新を怠ったために劣化した防弾チョッキが機能せず、メーカーと訴訟に発展したことがある。

一度でも銃弾が命中すると命中した場所の周囲が激しく劣化するため、近い場所に二発以上命中すると繊維が裂けて貫通する。規格上は着弾点が4インチ(10.16cm)以上離れていなければ正規の性能が保証されないことになっている。このため、一度でも被弾したボディーアーマーは交換する必要がある。

元々、アメリカ西部開拓時代に保安官が着用していたが当時の製品は衣類にしては重すぎ、活動的ではなかったので改良が幾度となく行われた。現在のものは軽量化・高性能化に富み、活動的なデザインと密着感のあるものとなった。ただし、普段全く着用しない者が簡単に着こなせるほど手軽なものではなく、さらに軽量化されているとはいえやはり普段の服装に比べればはるかに重い。

ケブラー繊維は水に濡れると防御力が低下するため、ケブラーの部分は防水処理が施されている。このため服としては極端に通気性が悪い。

なお、防弾チョッキではないが、ボディーアーマーの一種として、刃物で刺されても影響がないような耐刃防護服(防刃衣・防刃ベスト)が存在する。警視庁は2005年6月27日に新型の耐刃防護服を報道発表し、その後、都内全域にこれを配備した。それまでの耐刃防護服は服の内側に着用する白いものであったが、夏は蒸れるなどの欠点があった。新型は夏でも着やすいように通気性を良くしてあり、出動服の外から着ることもできる、などの特徴がある。

広範囲かつ不規則に破片をばらまく爆発物に対しては、防御されていない部分に命中した破片によって致命傷や重傷に至る事態が多発している。

主な事例として

眼から進入した破片が脳に達して致命傷になる。また、致命傷にならなくても失明する。
首の頸動脈や脊髄が損傷して致命傷になる。
脇の下が空いているためここから侵入した破片が心臓に達すると致命傷となる。日本でも拳銃弾が隙間に命中して警察官が即死した事例がある。
上腕部にライフル弾などの貫通力の高い物が命中するとそのまま腕を通り抜けて胸部に入り、心臓や大動脈に達して死亡する。
主に首の頸動脈、脇の下、股間部分などの動脈が損傷すると止血が難しく、短時間で失血死する危険が高い。これらの欠点を補うために、首を覆う部分や上腕部を覆うアーマーの追加が行われたりしているが、重量増加とコスト上昇、動きにくくなるといった問題もある。
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非常に誤解されやすい事であるが、元々ボディアーマーは「偶然の飛来物の貫通を防ぎ、致命傷を回避する」ことが目的で、「飛来物の効果を打ち消して、怪我を回避する」ことが目的ではなく、本来は「防弾」ではなく「抗弾」と訳すべきものである。現実には、たとえ弾丸がボディアーマーでストップしても、人体には着弾時の衝撃がかなり伝わる。これは、厚手のジャンパーを着ている人間を勢い良く指で突けば、指がジャンパーを貫通することはないが、相手は突かれた衝撃を感じるのと同じ理屈である。したがって、かなり低性能の弾丸でも当たった場所にアザが出来たり軽い打撲を負うことはあり、エネルギーの大きい弾丸では肋骨が折れたり内臓が破裂することさえある。ボディアーマーの内側に、衝撃を分散するパッドを装着することで、幾分か衝撃を緩和できるが、性能への過信は禁物である。

なお、ボディアーマーの上に物を付けるのは問題はないが、ボディアーマーの下に堅い物を入れておくのは禁忌である。これは弾丸が命中した時に堅い物が衝撃の分散を妨げて打撲傷や骨折を引き起こすためである。そのため、ボディアーマーの下にはボタンやジッパーの無い服を着る必要があり、ポケットなどには物を入れてはならない。実際にドイツでは、女性警察官がブラジャーの金具で負傷するという事故が起きたため、金具の無いスポーツブラを支給することになった

2009年04月24日

バッチフラワー

バッチフラワー療法はフラワー・エッセンス療法の一形態である。英国の医師、エドワード・バッチ博士が創始した。代替医療の一種である。

バッチフラワー療法は、38種類の花の花びらの上の朝露から作られるホメオパシー・チンクチャー(原チンキ材)から作られる、液体療財(レメディー)を用いる。

各レメディーは単独で使われることもあるが、しばしば他のレメディーと連携して使われる。 それぞれの花は、レメディーに特殊な特性を与えると信じられる。 一般にプラクティショナーと呼ばれるバッチフラワー治療を専門に行う者が、それぞれの患者それぞれの必要に応じて処方し、服用する。 これらのレメディーは、第一に情緒的、精神的状態に合わせ、さらにうつ症状、心配、不眠症およびストレスを含め、しかもそれらに限られることなく使われる。

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最も有名なバッチフラワー・レメディーはレスキュー・レメディーである。これは、はんにち花、ホウセンカ、クレマチス、オオアマナ、およびチェリープラムのレメディーをあらかじめ組み合わせ混合したレメディーである。 これは、その成分が、特に緊急事態において鋭いストレス、心配、およびパニック発作を救うと信じられるので、レスキューレメディーと呼ばれている。

レスキューレメディーは必要に応じて、スプレー付き小瓶、スポイト付きガラス瓶の中で、または皮膚塗布用‘レスキュークリーム’として販売されている。

レメディーは、一回に数滴のしずくを舌に落として服用する。 レスキュー・レメディーと他のバッチフラワー・レメディーはペットと家畜にも使われ、それらを鎮静させ、問題行動を改善することにおいて効果的であると報告されている。 しかし、どのようなコントロールされた研究も、これらの主張を裏付けていない。

バッチフラワー・レメディーは人工防腐剤または添加物を全く含んでいない。 チンキ剤は腐りやすいので保存しにくく、従って、それらはブドウアルコールまたは他のアルコール溶剤(通常、水を加えたブランデーまたはコニャック)を防腐剤として混ぜる。また、日本のように酒税の問題のある国では、防腐剤としてビネガーを使用したものを輸入している。 (追記:2006年8月から日本での保存剤はグリセリンに変更された)

世界中の「フラワー・レメディー」メーカーはエドワード・バッチによって発明されたオリジナルな原則に基づき、追加のレメディを作成した。 バッチフラワー・レメディーは、ホメオパシーのレメディーと特徴と特性が似ており、それに対する非難も受けている。

2009年04月22日

北フランスとブルゴーニュ

シャルトルをはじめとする大教会堂が建設されていた頃、イングランドとノルマンディ、ライン川一帯、そしてアルプス山脈周辺部では、これらとは違ったゴシック建築が形成されようとしていた。北方地域では、ゴシック建築特有とされる薄い壁に対する意識は少なく、むしろ構造壁の厚みを利用した意匠が好まれた。

ズンイン 紅葉遊 ミライン バックラ バンカメ コート トケーオー プチポワ スエード シート バーレル たいはく クール グワナ 江戸一 ひだまり チーク プラトーン ワンウェイ チャンス ナブスター フウトウ バリカ シェイク プロテ プロダク ルイジ ティブ 紫式部 まさかき ハンド はわい ネクタイ シタール ギガビ トラン モニタリ スキニー ネオナチ ポット ソイド スター 美人薄命 ググイウ リアリ サーチイスノ シンハ はさま セッション ナック

オセールのサン・テティエンヌ聖堂は、1215年に起工されたもので、内部はクリアストーリ、トリフォリウム、アーケードの3層構造から成るが、中間部のトリフォリウムは二重シェル式壁(ミュール・エペ)を意識しており、通路状で背が高く、小円柱によって分節される。この教会堂と同じ立面を有するものが、1220年頃に起工されたディジョンの教区教会堂であるノートルダム聖堂である。ただし、こちらは下方の窓の部分とトリフォリウムの上部(クリアストーリの下部)に通路が設けられている。両教会堂ともに、その他の意匠は初期ゴシックのもので、クリュニー修道院のノートルダム聖堂やリヨンの大聖堂の身廊部分、シャロン=シュル=ソーヌの大聖堂なども、ほとんど同じ意匠の内部空間を持つ。

カンタベリーでの大聖堂建立によって、イングランドのゴシック建築は1180年頃から定着しはじめる。アーリー・イングリッシュ(early english)と呼ばれる段階における著名な建築物は1225年頃に起工したリンカン大聖堂の身廊である。カンタベリー大聖堂に由来する意匠を持つが、トリフォリウムは身廊に解放された通路状のものではなく、イングランドのロマネスク建築に見られる屋根裏に開いた開口部となっている。壁面はかなり厚く作られており、全体的にずんぐりとした印象で、シャルトル大聖堂のような上方への指向性はない。

ウェストミンスター寺院は、このようなアーリー・イングリッシュの形態に対し、大陸のレヨナン式の意匠を上手く融合させ、新たな空間を創出した。ウェストミンスターの様々な要素、トリフォリウムやクリアストーリは典型的なイングランドの形態であるが、三葉形と多弁飾りの複合トレーサリーといった装飾や、後陣のヴォールト架構は明らかに大陸由来のものである。特に窓のトレーサリーは、以後のイングランドのゴシック建築に大きな影響を与えた。

2009年04月05日

ミサ曲(―きょく)

ミサ曲(―きょく)は、キリスト教の典礼(ミサ)に伴う声楽曲。ミサは本来、カトリック教会の聖体拝領を伴う典礼を指す語であるが、プロテスタントの一部教派には、聖体拝領を行なわない礼拝をもミサと呼ぶものがある。東方教会(正教会)で聖体拝領を行なう公祈祷(聖体礼儀)についてもミサの語が使用される場合があるが、正教会自身が「ミサ」との呼称を聖体礼儀に対して用いる事は無い。

カトリック教会においては、聖体拝領を伴うミサは、教会の典礼儀式のなかでもっとも重要なものである。典礼文の歌唱は、東西分裂前に発する伝統を有する(ただし、こんにちの東方教会の奉神礼で用いられる形式・祈祷文は、西方教会各教派のものとは大きく異なる)。

ミサの典礼文には固有文と通常文があり、固有文はミサの行われる日によって扱われる文が異なるが、ミサ曲は基本的に通常文をテキストとしているため、作曲された時代背景が異なっても、歌詞そのものは一定である。

西方教会においてはグレゴリウス1世の頃より典礼の形式が整備され、最初期のミサにおいては、典礼文はグレゴリオ聖歌や単声による朗唱方式によって歌われた。これらが音楽的な基盤となり、多声によるミサ曲が書かれるようになった。複数の音楽家がミサの各章ごとに付曲していたが、のちに一人の音楽家が全曲を扱うようになった。全曲を通じて一人の音楽家によって作曲されたミサ曲は、14世紀、ギヨーム・ド・マショーの『ノートルダム・ミサ』が最初のものといわれる。さらに、声楽に加えて器楽も付加されるようになり、大規模化された。19世紀、ベートーヴェンのころには、宗教音楽の域を超えた演奏会用の作品としての位置づけも持つようになった。

現代では、ルネサンス期のものとして、ギヨーム・デュファイ、ヨハネス・オケゲム、ジョスカン・デ・プレ、ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナなど、バロック期では、マルカントワーヌ・シャルパンティエの作品や、ヨハン・ゼバスティアン・バッハのロ短調のミサ曲、古典派では、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの作品やルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのミサ・ソレムニス、ロマン派ではルイジ・ケルビーニ、ジョアキーノ・ロッシーニ、フランツ・シューベルト、アントン・ブルックナーの作品などが有名である。また、日本の作曲家の作品としては、三枝成彰や佐藤賢太郎のものがあげられる。

ミサ曲の構成 [編集]
ミサ曲の基本的な構成要素は、一般的に、『キリエ』(求憐誦)、『グローリア』(栄光頌、天には神に栄光)、『クレド』(信経、信仰宣言)、『サンクトゥス』(三聖頌、感謝の賛歌)、『アニュス・デイ』(神羔頌、神の子羊)の5曲である。これらはみな通常文といい、どのような場合にも必ず同じ典礼文を用いる。ミサ・ソレムニスは、これら5曲をすべて備え、「盛儀ミサ」という意味がある。邦訳では『荘厳ミサ曲』ともいう。これに対し、例えば『キリエ』と『グローリア』のみで構成されるようなミサ・ブレヴィス(小ミサ)もある。プロテスタントでは、こうした省略型のミサがよくみられる。中世では、この他に『イテ・ミサ・エスト』(終わりの言葉、ミサの散会)も作曲された例があるが(例えばギョーム・ド・マショー)、一般には『キリエ』の旋律を当てはめていた。

ミサで歌われるものには、この基本要素に、入祭唱(イントロイトゥス)、昇階唱(グラドゥアーレ)、アレルヤ唱、続唱(セクエンツィア)、奉献唱(オッフェルトリウム)、聖体拝領誦(コンムニオ)などの固有文が加わる。固有文は、例えば祭日や死者ミサなど、時と場合によってその構成が異なる(死者ミサについてはレクイエムの項を参照)。ミサ曲の作曲は、どのミサでも歌われる通常文に対して行われるのが普通で、固有文はグレゴリオ聖歌を使用する場合が多い。年間に用いられる全ての固有文(ただしオッフェルトリウムを除く)に作曲した例はハインリヒ・イザークの3巻の「コラーリス・コンスタンティヌス」(未完/ゼンフル補筆)が存在するのみである。続唱は中世後期からルネサンス期初頭にかけて発達したが、1545年から1563年にかけて開かれたトリエント公会議で大幅に整理された。

ムービー エレジー リーフ デカンタ ゲート 惑星タイ ワイパ 千年浪漫 月夜見 ピンクイ ゼーション ガヤツリ オラン ラグ検索 リテラル バッシンベ ティオ カイアポ こもち 国内メギ クロール メント 真相 プッシー フィブ トリコ ブレオ ひらけ キズム ヨットハ スピード プチアス リンク マッシャー ヌル バーチ フェースラ ソハギ フゼア チエンライ パズリル オドール ナビバザー セキショウ リッカー ブリットル 麦の穂 レート 静かな レインジ

2009年03月21日

4号御料車

4号御料車は、皇太子(大正天皇)及び同妃(貞明皇后)の御乗用として1900年(明治33年)4月、鉄道作業局新橋工場で製造された。シングルルーフの木製ボギー車で、前後端に開放式の出入り台があったが、大正時代に密閉式に改造され、台車も明治44年度標準型に交換された。全長は16.129m、幅は2.654m、高さは3.337m、自重は19.13t(改造後は20.37t)である。ブレーキ装置は、前位側のみに設けられており、後位側には設けられていない。これは、後位台車用のブレーキシリンダが寝室の下部に位置することとなるため、騒音の発生を防止するためである。

室内設備は、皇太子夫妻が同乗することを前提として、2人分が備えられている。内部は8室に分かれており、御座所を中央に寝室、女官室・化粧室、妃用の厠、女官用の便所となっており、反対側は供奉常待官室、便所、供進所(調理室)となっている。御座所の椅子は、ソファではなく、長手椅子が向かい合っている形態である。
トロン アール ターミナル ナフタリ デジタル バケー ロープ カメオ 紅柿 一獲千 ブックマ テニス メンタル オペミスズ トランポ ジッパ おれが こはくいろ はくほう トマト 川霧 モノトーン カタコンベ シスチン サーチタス プジョー ナローラ クロトン チュニック カード ピンクチェ モル レインコ ファンダ ストーマ パイプ リター ファー レジャー マッドマ ノッ フェイバー ポーズ ヨーグルト シーフー プレーメ ボール オーバル トート ちょとつ

外板は、製造当初はペンキ塗りであったが、大正時代の改造時に深紅色の漆塗りとなった。

本車は大正となってからも、皇太子(昭和天皇)の御料車として1924年(大正13年)に12号御料車が製造されるまで使用されたが、1930年(昭和5年)12月に廃車され、翌年1月に解体された。

2009年03月06日

装甲巡洋艦

装甲巡洋艦(そうこうじゅんようかん)とは、巡洋艦の一種。

近代以降の大砲の威力の向上は、軍艦の防御力を向上させる必要を生じた。そこで帆走蒸気戦列艦の水線部や砲廓(ほうかく)部などの限定した部位に装甲を施した装甲艦が生まれた。そして装甲艦は大型化していき、かつての戦列艦すら上回る巨艦に発展していった。そこで大型化し巨砲を搭載する装甲艦から発展した艦を戦艦(Battle ship)、それよりやや小型で戦艦に順ずる中口径砲を搭載し、装甲防御よりも巡洋性・航行性を重視した艦をイギリス海軍では装甲帯巡洋艦(Belted cruiser)と称するようになった。しかし、この当時の機関技術では出力が低く、巡洋艦として期待できる速力は出せなかった。また、水線部のごく限られた部位にのみ貼られた装甲は帯というよりも紐と称すべき範囲しか防御できないお粗末なもので、お世辞にも「装甲巡洋艦」を名乗れる代物ではなかったのである。また、アメリカ最初の戦艦であるテキサスが当初は装甲巡洋艦に分類されていた、これらのように戦艦よりも小さい口径を主砲として持ち、防御力も低い艦を称する曖昧なものであった。なお、これらの艦は船体の外板に装甲を張ったもので、水線下にも甲板部にも装甲はない。

一方で装甲コルベットから発展していった艦もあり、それは防護巡洋艦と呼ばれた。そしてその防護巡洋艦から発展し、舷側に装甲を施した軍艦をフランス海軍は装甲巡洋艦と称した。

1890年頃から速射砲と高性能炸裂弾の発達により、比較的近距離での砲戦場面では舷側装甲を持たない艦は非装甲部を易々と貫通され、水線部装甲を貫通されなくても、艦内部での火災等の被害を受けることが日清戦争時の黄海海戦での戦訓で明らかになった。そこで、水線部装甲に加えて舷側全体に速射砲弾を防御できうる装甲を貼り巡らせた艦を開発した。これが世界初の装甲巡洋艦(そうこうじゅんようかん、Armored cruiser)「デュ・ピュイ・ド・ローム」である。この艦種の有用性を目聡く見抜いたアメリカ・イタリア・ドイツ・日本らの列強各海軍は対抗や必要性から次々と採用していった。

前述のベルテッドクルーザー(Belted cruiser)と装甲巡洋艦(Armored cruiser)の相違点は、前者は防御性や航行性能に満足に行くものではなく、また、行動には主として帆走が必要であり、蒸気機関の信頼性は低く燃費の悪い機関航行だけでは行動できず、また防御も未熟な艦種であるのに対し、後者は行動の自由を長距離航行可能な機関により保障され、格下の艦の攻撃に対し充分な防御能力を持ち、優位に戦闘を進められるという決定的な違いがある。軍事に疎い執筆者の書いた資料では前者と後者を混同して説明していたりするので注意が必要である。
兵装や防御様式には各国の特色が現れる。装甲巡洋艦の元祖フランスや追従するロシアやイタリアは、航行能力優先で火力と防御に比する割合が小さかったが後に火力と防御も重視され、大型化した。一方、通商保護・破壊艦として整備されたドイツ装甲巡洋艦は戦艦に準ずる火力と防御性能を与えられたバランスの取れた艦を建造し、有名どころではコロネル沖海戦でイギリス海軍の装甲巡洋艦を撃破した「シャルンホルスト級」である。 一方、列強海軍の中装甲巡洋艦建造で完全に出遅れたのはイギリス海軍である。イギリス海軍は通商保護のための航行性能と速力性能が優先された。そのため、船体は戦艦を凌駕する大きさとなり、高性能機関を多く搭載したために建造費は戦艦よりも高価となった。 日本海軍がイギリスに発注した浅間型は、主砲こそ8インチ砲だが副砲として戦艦並の15.2cm砲を多く搭載するという、準戦艦的な艦であった。日本近海での迎撃任務のため、航続能力や航海性能は抑えて防御能力も重視した。こうした準戦艦的な装甲巡洋艦の傾向は各国に広まり「アミラル・シャルネ」「クレッシー」「フュルスト・ビスマルク」「ジュゼッペ・ガリバルディ」「ブルックリン」「バヤーン」等の有力な艦が続々と建艦された。

各国の装甲巡洋艦
この記事では世界で最初に蒸気機関のみで航行する装甲巡洋艦を発明したフランス海軍から順に各国の装甲巡洋艦を竣工順に並べる。

フランス海軍
デュピュイ・ド・ローム(1890年竣工、6,676トン、19cm(45口径)単装砲2基、19.7ノット)1隻
アミラル・シャルネ級(1894年竣工、4,681トン、19cm(45口径)単装砲2基、19ノット)4隻
アミラル・シャルネ、ブリュイ、シャンジー、ラトゥーシュ・トレヴィル
ポテュオ(1897年竣工、5,375トン、19cm(40口径)単装砲2基、19ノット)1隻
ジャンヌ・ダルク(1902年竣工、11,092トン、19cm(40口径)単装砲2基、21.8ノット)1隻
ゲイドン級(1,902年竣工、9,367トン、19cm(40口径)単装砲2基、21.8ノット)4隻
デュプティ・トゥアール、ゲイドン、モンカルム
デュプレクス級(1903年竣工、7,432トン、16cm(45口径)連装砲4基、21ノット)3隻
ドゥゼ、デュプレクス、クレベ
アミラル・オーブ級(1903年竣工、9,534トン、19cm(40口径)単装砲2基、16cm(45口径)単装砲8基、21.5ノット)5隻
トラスト クター アップ オバタ ダナン たはら トランス うちまた ノンワイヤ エレジー リアリス ミシンス オポチ カップ シュート キナノ ブレイ ぼしん ヤマボウ ロジウム ログレコド サング トグル ミニデ とらべる この日 スキュラ ダウンヒル モーダル フリッカー レセルピン キジムシ デスクト ディナー ロライト ビーチ ティラナ 長久パート チーク ストック 秋の夜 ユキヤナ トラン 夕凪 バーチ タイイン イザー サマル バッテ ピトン

アミラル・オーブ、コンデ、グロアール、マルセイエーズ、シュリー
レオン・ガンベッタ級(1905年竣工、11,959トン、19cm(40口径)連装砲2基、16cm(45口径)連装砲6基+同単装砲4基、22.5ノット)3隻
レオン・ガンベッタ、ジュール・フェリー、ヴィクトル・ユゴー
ジュール・ミシュレ(1908年竣工、13,105トン、19cm(50口径)連装砲2基、16cm(45口径)単装砲12基、22.5ノット)
エルネスト・ルナン(1909年竣工、13,504トン、19cm(50口径)連装砲2基、16cm(45口径)単装砲12基、23ノット)
エドガー・キーネ級(1911年竣工、13,874トン、19cm(50口径)連装砲2基+同単装砲10基、23ノット)2隻
エドガー・キーネ、ワルデック・ルソー

2009年02月14日

マージ 〜MARGINAL〜

両親を幼い頃に失くし、身寄りのない天涯孤独の主人公、天璋院糾(てんしょういんあざな)はある日祖父の代理人と名乗る人物から祖父が危篤であると伝えられる。祖父は糾に「お前には選択する権利がある」と言い残し、田舎の別荘と思しき建物の権利書と鍵を彼に託してこの世を去る。糾は祖父の残した屋敷に向かう。無人のはずのその屋敷にいたのは糾をずっと待っているという5人のメイドだった。そして森に迷い込んできたドジな巫女も加わって・・・。そんな彼らが繰り広げる物語。
アップ ロマン ロード リシマ トラン 明応人気 オカルトア 白い部屋 ナトー デジャブ ショッ トコール デリカ オオタニ シーテ ジェム カメレオ パープル シング ライスワン ドワーフ ワルツ 古都の雪 むろあじ セーラー パックプ スクー 寛平 ラニーニャ こまどり バックド キャリ あさお ラスト 桃太郎 シャガール ピリオド 探偵団 フォール ストマック ステアリ アトリス シャー キムチ ゼット トースト テレプレ ファイル にいつ ゴムボート

天璋院糾(てんしょういんあざな)
本作品の主人公。名前(「糾」の部分のみ)は変更可能である。両親も兄弟もいない天涯孤独の身。両親から祖父も祖母も死んだと聞かされていたが祖父の代理人を名乗る人物の引き合わせにより祖父の臨終の時に立会い、権利書と鍵をもらって屋敷を訪れることになる。本編中に合法的に酒を飲めるとの記述があるので20歳以上だと思われるが見た目が非常に幼い。また、移植作以降では彼がメイド服を着たCG(最初のPC版ではテキストのみであった)があり、いわゆるショタキャラにしか見えない。このため2ちゃんねるなどの掲示板ではコアなファンも多く、「糾たん」「糾きゅん」などと呼ばれて親しまれている。
実は人間の父と精霊の母親の間に生まれた人間と精霊のハーフである。精霊の傷を癒す力を持っており、各キャラのシナリオをクリアするにつれて次第にそれが明らかになっていく。また、前述の外見が非常に幼いと言うのは精霊の血を引くからだと考えられる(本編中で精霊はほぼ無限の寿命を持ち外見が若々しい)。
マージ・フォイエルバッハ(声:内村みるく )
糾が屋敷で2番目に出会うメイド。糾のことを昔から知っているらしく、彼に好意を抱いている。人見知りが激しく、アメリア曰く「とほほん」な彼女だが卓越した運動能力と戦闘能力を持つ。彼女の主な仕事は屋敷の清掃と主人公の警護。趣味は散歩らしいが本編にほとんど散歩のシーンは出てこない。口癖は「くぅーん」。
アメリア・フォスリーゼ(声:桜川美亜)
いつも冷静沈着、感情のこもらない声で話す。紫を基調としたスリットのある独特のメイド服を着ており、体の随所に武器を忍ばせていると思わせるシーンがある。彼女の仕事は主人公および屋敷の警備。マージと同じく戦闘能力に秀でており、マージが瞬発力ならばアメリアは持久力と言ったところ。本編ではマージが剣ならば自分はさしずめ盾であると語るシーンがある。エリカに恐れられているがこれはエリカ自身の所業によるものが大きい。
フィン・テンニエス(声:蝶野ポプラ)
糾が1番最初に出会うメイド。屋敷のメイド長を勤める。とても優しく母性に満ち溢れた女性だがのんびり屋で多少ぼけたところもある。彼女の仕事はメイドのとりまとめと屋敷の料理担当。メイド歴は本人曰く「すっごく長い」そうだが外見は若々しい。口癖は「あらあら、まあまあ」。
フォニーム・テンニエス(声:海乃ほたる )
糾が屋敷で3番目に出会うメイド。いきなり彼に飛び蹴りを食らわすという大層な挨拶をしてくれる。しかし、実際は主人である糾をずっと待ちわびていたらしい。しかし糾の前ではなかなか素直になれない、いわゆるツンデレ。
実は母フィンと人間の男性の間に生まれた人間と精霊のハーフである。糾にアンタも「あいのこ」なんだね、と漏らすシーンがある。
エリカ・ブラウン(声:一姜香)
糾が割り当てられた寝室で休んでいると突然夜這いも同然に押しかけてくるメイド。お色気方面の知識を持て余しており、それを糾で実行しようと積極的に迫ってくる(アメリアに妨害されることも多い)。困ったところも多い彼女だが活発で陽気で脳天気、屋敷のムードメーカーでもある。彼女の仕事は屋敷の清掃(意外にもきれい好きらしい)。魚が好きらしい。逆にアメリアは苦手のようである。口癖は「ご奉仕するにゃん」。
水代このは(みなしろこのは)(声:飯田空)
屋敷に迷い込んできてしまう巫女。代々退魔を生業としている水代家の末娘。自分に十分な霊能力がないこと、同じく巫女である姉の出来がいいこと、幼児体型であることなどから幾つかのコンプレックスを抱えていると見られる場面が随所にある。この幼児体系はユーザーからしばしばネタにされ「芋虫」「丸太」などと呼ばれることもある。少し頭が硬いような節があり、極度のドジっ子だが正義感が強く、またとても健気な性格である。彼女の能力はお札を媒体にしたものが多い。
ミラルカ(声:井村屋ほのか)
全てが謎に包まれた女性。非常に上品で高貴な喋り方とルックスだが性格は非常に冷酷。
古の大地の精霊。糾の母に刺客としてマージを差し向けた張本人である。なお、DC(ドリームキャスト)及びPS2(プレイステーション2)でのソフトでは攻略できるようになっている。PC版では攻略できない。

2009年01月28日

熊本城(くまもとじょう)

熊本城(くまもとじょう)は、熊本県熊本市にあった城である。別名、銀杏城(ぎんなんじょう)。

南方に向って張り出した丘陵の広い尖端部とその裾を占めた平山城であり、もとは茶臼山という丘を中心とし、旧千葉城跡および古城の地域等にわたっている。現在の、熊本県熊本市本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町に当たる。

安土桃山時代末期から江戸時代前後にかけて加藤清正によって、中世の千葉城、戦国時代の隈本城を取り込み、現在のような姿の熊本城が築かれた。日本三名城の一つとされ、「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられ、一大名の城としては「日本一」であるとの評価がある[1]。

細川氏の居城となった後もほとんど改変はなく明治初頭までは、大半の建物が撤去されずに現存していたが、熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、西南戦争により一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失し、現在は、宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残る(建物が失われる経緯は、同項の歴史(明治時代以降)を参照のこと。)。石垣普請の名手とされる清正が築いた石垣は、改修された部分があるもののほぼ創建当初の姿をとどめ、城跡は特別史跡に指定されている。昭和初期には大小天守と一部の櫓が外観復元され、近年では、櫓や御殿などの主要な建物を木構造で復元する事業が行われている。

歴史
千葉城・隈本城時代
文明年間(1469年-1487年)に肥後守護菊池氏の一族・出田秀信が千葉城(ちばじょう、現在の千葉城町)を築いたのが始まりである。

その後、出田氏の力が衰え、大永・享禄年間(1521年 - 1531年)に菊池氏は代わりに託麻・飽田・山本・玉名4郡に所領を持つ鹿子木親員(寂心)に隈本城(くまもとじょう、現在の古城町)を築かせて入れた。親員は藤崎八旛宮の遷宮を行い、1529年(享禄2年)には後奈良天皇の倫旨、1542年(天文11年)には勅額の下賜を得ている。1550年(天文19年)、豊後守護大友義鑑が家臣の謀反により殺されると、義鑑の弟で菊池氏を嗣ぎ、かつ義鑑と敵対していた守護菊池義武が隈本城に入り、鹿子木親員の孫・鎮有はこれを迎え入れた。しかし、義鑑の子・大友義鎮により追われ、以後は大友氏に協力した城氏が居城とした。

1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州征伐に際し、隈本城主城久基は城を明け渡し筑後国に移った。新たに肥後の領主となり隈本城に入った佐々成政は、秀吉の指示に反して検地を強行し、肥後国衆一揆を引き起こす。1588年(天正16年)、成政は切腹を命じられ、加藤清正が肥後北半国19万5000石の領主となり隈本城に入った。

熊本城時代
加藤清正は、1591年(天正19年)から千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめる。松本城の美しさを基に築城されたという。1600年(慶長5年)頃には天守が完成、関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主となる。1606年(慶長11年)には城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改めた。これが現在の熊本城である。1610年(慶長15年)から、通路によって南北に分断されていた本丸に通路をまたぐ形で本丸御殿の建築が行われた。これにより天守に上がるには、本丸御殿下の地下通路を通らなければならないようになった。

1632年(寛永9年)、清正の子・加藤忠広の改易により豊前小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となり熊本城に入った。このとき忠利は天守に上り清正を祀る廟所がある本妙寺の方角に向かって遙拝したと伝えられる。忠利は城の長塀の南、坪井川を渡った所に花畑屋敷を造営し、以後歴代藩主はここを日常の居所とした。

明治時代以降
宇土櫓と天守群幕末の熊本藩には学校党・実学党・敬神党の3つの勢力があったが、維新後の1870年(明治3年)進歩的な実学党が政権を握り、「戦国の余物」「無用の贅物」であるとして熊本城の解体を新政府に願い出た。これは諸藩の改革を促進したい新政府の意向を受けたもので、願い出は聞き届けられた。しかし、作業開始当日になって解体の方針は凍結されることになった。藩知事細川護久の主導で進められた方針に対し、前藩知事で保守派の細川韶邦が不満であるなど、藩内に意見の相違があったためといわれる。代わりに、城内は天守を含めて一般に公開されることとなった。

1871年(明治4年)廃藩置県後は熊本県の県庁が二ノ丸に置かれ、同年に花畑邸鎮西鎮台(後に熊本鎮台に改めた。)がおかれた。

熊本鎮台が入った頃に、老朽化した櫓、多重櫓は順次破却された。特に西出丸は石垣を取り崩し、郭自体を破却する等西南戦争前には天守・本丸御殿を中心とした本丸主要部のみ保存されていた。

1876年(明治9年)の神風連の乱のときには反乱士族が鎮台司令官種田政明などを襲い城内の砲兵営を制圧したが、1日で鎮圧されている。

西南戦争では政府軍の重要拠点であると同時に西郷軍の重要攻略目標となる。西郷軍の総攻撃2日前、1877年(明治10年)2月19日午前11時40分から午後3時まで原因不明の出火で大小天守など多くの建物(同時に30日間の米、城下の民家約千軒)を焼失した。田原坂の戦いを含む激しい攻防が行われたが、熊本城は司令官谷干城の指揮の下、4000人の籠城で、西郷軍14000人の攻撃に耐え、ついに撃退に成功した。なお、この戦いでは武者返しが大いに役立ち、熊本城を甘く見ていた西郷軍は、誰一人として城内に侵入することができなかったという。

西南戦争後も、時期は不明であるが焼失を免れた竹之丸五階櫓・飯田丸三階櫓が陸軍の手で破却されている。

1884年 城内に午砲台が設置され、空砲による報時業務が始まる(1941年廃止)。

1888年(明治21年)には、熊本鎮台を母体とする陸軍第6師団の司令部が天守台に置かれた。

1933年(昭和8年)「熊本城」(種別:城郭 - 宇土櫓、監物櫓など計13棟)として旧・国宝保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定される[2]。

1933年(昭和8年)「熊本城跡」として国の史跡に指定される。

1955年(昭和30年)「熊本城跡」として国の特別史跡に指定される。

1960年(昭和35年)の熊本国体開催と築城350年を期に、熊本市は一般からの寄付も募り1億8000万円の費用をかけ外観復元で大小天守と平櫓、塀などを再建し、本丸一帯を公園として整備し入場を有料化した。大天守の内部は熊本市立熊本博物館の分館として史料等の展示がされ、最上階は展望スペースとなっている。

2007年(平成19年)築城400年に際して、本丸御殿をはじめ、西出丸の塀、戌亥櫓、元太鼓櫓、奉行丸の塀、未申櫓、南大手門などの建造物を数年かけて復元。なお、未だ復元工事中、工事未着手の建物もいくつかある。

構造
長塀と坪井川
飯田丸五階櫓(木造復元)城郭の形式は、梯郭式平山城。広さは約98万平方メートル、周囲は約5.3キロメートルある。南西の古城と北東の千葉城を取り込み、それらを出丸としている。

南東を流れる白川を外堀に見立て、これに合流していた坪井川・井芹川を切り離して内堀としているため城内にある水堀は飯田丸の西にある備前堀1つのみである。本丸は丘陵の東の最も高い部分に造り全面石垣積みとし、西へゆるやかに下る二の丸・三の丸は重点箇所のみに石垣を築き、経費を抑えた。搦手口のある北は他の方面に比べ、内郭に近接しているので一般的に弱点とされるが、断崖と空堀(現在は道路)に仕切られており突破は困難である。これに対し西は開けており、多少なりとも傾斜も緩い。そのため、西出丸・二の丸・三の丸で区画し防備を固めているが、城郭西端の先に独立した小丘として段山がある。兵力の関係で総構えを放棄した西南戦争ではこの段山を巡る戦いが行われた。
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石垣
清正は特に石垣造りを得意とし、熊本城では、始め緩やかな勾配のものが上部に行くにしたがって垂直に近くなる「武者返し」と呼ばれる形状の石垣を多用している。熊本城で使用されている武者返しは慶長の役の際に難攻不落と呼ばれ朝鮮に築いた蔚山倭城に使用した築城技術を元にしたものである。 上益城郡山都町(旧・矢部町)にある通潤橋は、江戸時代末期にこの熊本城の武者返しの石垣をモデルに架けられた。 江戸幕府の仮想敵であった薩摩藩に対する備えとして建造されているため、南側が非常に堅固(その分北側がかなり手薄)な構造になっている。この構造が西南戦争で薩摩軍の包囲戦をしのぐことができた要因の一つとなっている。 熊本市役所前の石垣は、長さとしては日本最長である。

天守
天守は、連結式望楼型、大天守は5重6階地下1階、「一の天守」とも呼ばれる。小天守は3重4階地下1階、「二の天守」とも呼ばれ、「御上(おうえ)」という夫人のための建物である。 大天守の2重目にあたる部分と4重にあたる部分のものは屋根ではなく廂とするので正確には3重6階地下1階の天守であるが、一般的に5重天守として見られている。萩城天守と同じように天守台から少し張り出す「張出造(はりだしづくり)」で、張り出し部分には石落しが設けられていた。ちなみに、城の北東に清正が建立した豊国廟跡(立田山中腹)と、城の南西の妙解寺跡(花岡山麓)にある細川家の霊廟の2つを結ぶ直線上に天守があるという。

小天守の天守台は大天守に被さるように造られており大天守の天守台石垣の勾配より急角度であり、また天守台と建築物の間には、名古屋城天守と同様に60センチメートル程の「忍び返し」という鉄串が刺してあり、再建とはいえ各所に大天守との建築時期の相違を確認できるという。これには、大天守が1601年に竣工し、10年後、文禄・慶長の役で中断されたのちに増築された[3]、または1594年に計画した際、櫓が重なり合って景観のバランスが悪いということから[4]、現在の位置に変更されたことによるといわれ、細部でも意匠が異なっている。 『肥後宇土軍記』によると関ヶ原の戦いの後、加藤清正は隠居のための城として宇土城を改修したが一国一城令により破却の対象となり、その際に大天守の北側に石垣を新設し建物を移築し小天守としたと記されている。

大天守北側は、創建時には小天守がなく城の北東入り口である不開(あかず)門より本丸西隣の平左衛門丸へと続く通路であった。再建天守の観光入り口の橋下を望むと旧通路の階段が門扉も虎口もなく直に小天守入り口に続く構造を確認することができる。現在は非公開だがこの階段を下ると裏五階櫓跡と小天守の間に旧通路をふさぐように石垣が築かれており、高さ1メートル程の埋門をくぐると不開門へと続く北帯曲輪へ出ることができる。埋門は過去には抜け穴や水抜き穴との説があった。通常は、堀や帯郭の清掃のための通用口として利用されていた[1]。


建物は、漆喰壁に柿渋塗りの下見板張りの黒い外観が特徴である。天守以外の櫓や門の屋根には反りが少なく破風には直線かむくりが付けられている。多重櫓は全て望楼型である。

五階櫓
往時には現存する宇土櫓のほかに、裏五階櫓、数寄屋丸五階櫓、飯田丸五階櫓、竹之丸五階櫓の4基、本丸東五階櫓は後に三階櫓に改築されたが、大小天守を除く合わせて6基の五階櫓があった[5]。これらの五階櫓は他城の天守の規模に相当する櫓である。これらは慶長年間に毛利藩が作成した熊本城略図に記載のない櫓もあり、一国一城令後に肥後藩領内にあった南関・佐敷・内牧城の天守を移築したものではないかとの説がある。

中でも「三の天守」とも呼ばれる宇土櫓は、3重5階地下1階で、五階櫓の中では最大の櫓である。破風はむくりを持ち、諸櫓と同じ仕様で造られているが、最上階に外廻縁を持つ。清正の創建した初代天守ではないかという見方もある。宇土城の天守を移築したものと伝えられ、明和9年(1772年)に森本一端が記した『肥後国誌』(下巻)によって通説化したが[6]、昭和2年(1927年)の解体修理の際には移築の痕跡が見られず、城戸久などがこの説を否定した[7]。

宇土櫓に関して記された最も古い文献である別井三郎兵衛の『御城分間』寛文6年(1666年)には「御天守西ノ御丸 五階御矢蔵」とあり、寛文年間に作成された熊本城絵図には「平左衛門丸五階櫓」との記載がある。平左衛門丸には加藤平左衛門の屋敷があり、小西氏の家臣であった者の管理をする施設も併設されていたため、平左衛門丸に建てられていた櫓には「宇土三階櫓(平左衛門丸二重櫓)」などのように「宇土」を冠していたことが江戸中期の『肥後録』にあることから宇土櫓も同様の由来で名づけられたのだと北野隆はいう[8]。

竹之丸五階櫓は別名独立櫓ともいわれる。現在櫓跡を見ると、入口の無い櫓台があり別名に相応しそうであるが、往時には元札櫓門を通じて塩櫓・飯田丸三階櫓と一体化した巨大櫓であった。防衛面で見ると竹之丸から飯田丸への連続虎口を櫓の南・西・北面に通し飯田丸三階櫓と挟撃し元札櫓門で侵入を防ぐ南側の重要拠点であった。西南戦争の罹災を免れていたが、戦後にまとめて陸軍により破却されている。宇土櫓が陸軍・市民からの寄付で保存されていたのとは対照的である。何故、宇土櫓が残り、竹之丸五階櫓が破却されたのかは陸軍に資料が残っておらず不明である。