熊本城(くまもとじょう)は、熊本県熊本市にあった城である。別名、銀杏城(ぎんなんじょう)。
南方に向って張り出した丘陵の広い尖端部とその裾を占めた平山城であり、もとは茶臼山という丘を中心とし、旧千葉城跡および古城の地域等にわたっている。現在の、熊本県熊本市本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町に当たる。
安土桃山時代末期から江戸時代前後にかけて加藤清正によって、中世の千葉城、戦国時代の隈本城を取り込み、現在のような姿の熊本城が築かれた。日本三名城の一つとされ、「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられ、一大名の城としては「日本一」であるとの評価がある[1]。
細川氏の居城となった後もほとんど改変はなく明治初頭までは、大半の建物が撤去されずに現存していたが、熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、西南戦争により一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失し、現在は、宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残る(建物が失われる経緯は、同項の歴史(明治時代以降)を参照のこと。)。石垣普請の名手とされる清正が築いた石垣は、改修された部分があるもののほぼ創建当初の姿をとどめ、城跡は特別史跡に指定されている。昭和初期には大小天守と一部の櫓が外観復元され、近年では、櫓や御殿などの主要な建物を木構造で復元する事業が行われている。
歴史
千葉城・隈本城時代
文明年間(1469年-1487年)に肥後守護菊池氏の一族・出田秀信が千葉城(ちばじょう、現在の千葉城町)を築いたのが始まりである。
その後、出田氏の力が衰え、大永・享禄年間(1521年 - 1531年)に菊池氏は代わりに託麻・飽田・山本・玉名4郡に所領を持つ鹿子木親員(寂心)に隈本城(くまもとじょう、現在の古城町)を築かせて入れた。親員は藤崎八旛宮の遷宮を行い、1529年(享禄2年)には後奈良天皇の倫旨、1542年(天文11年)には勅額の下賜を得ている。1550年(天文19年)、豊後守護大友義鑑が家臣の謀反により殺されると、義鑑の弟で菊池氏を嗣ぎ、かつ義鑑と敵対していた守護菊池義武が隈本城に入り、鹿子木親員の孫・鎮有はこれを迎え入れた。しかし、義鑑の子・大友義鎮により追われ、以後は大友氏に協力した城氏が居城とした。
1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州征伐に際し、隈本城主城久基は城を明け渡し筑後国に移った。新たに肥後の領主となり隈本城に入った佐々成政は、秀吉の指示に反して検地を強行し、肥後国衆一揆を引き起こす。1588年(天正16年)、成政は切腹を命じられ、加藤清正が肥後北半国19万5000石の領主となり隈本城に入った。
熊本城時代
加藤清正は、1591年(天正19年)から千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめる。松本城の美しさを基に築城されたという。1600年(慶長5年)頃には天守が完成、関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主となる。1606年(慶長11年)には城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改めた。これが現在の熊本城である。1610年(慶長15年)から、通路によって南北に分断されていた本丸に通路をまたぐ形で本丸御殿の建築が行われた。これにより天守に上がるには、本丸御殿下の地下通路を通らなければならないようになった。
1632年(寛永9年)、清正の子・加藤忠広の改易により豊前小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となり熊本城に入った。このとき忠利は天守に上り清正を祀る廟所がある本妙寺の方角に向かって遙拝したと伝えられる。忠利は城の長塀の南、坪井川を渡った所に花畑屋敷を造営し、以後歴代藩主はここを日常の居所とした。
明治時代以降
宇土櫓と天守群幕末の熊本藩には学校党・実学党・敬神党の3つの勢力があったが、維新後の1870年(明治3年)進歩的な実学党が政権を握り、「戦国の余物」「無用の贅物」であるとして熊本城の解体を新政府に願い出た。これは諸藩の改革を促進したい新政府の意向を受けたもので、願い出は聞き届けられた。しかし、作業開始当日になって解体の方針は凍結されることになった。藩知事細川護久の主導で進められた方針に対し、前藩知事で保守派の細川韶邦が不満であるなど、藩内に意見の相違があったためといわれる。代わりに、城内は天守を含めて一般に公開されることとなった。
1871年(明治4年)廃藩置県後は熊本県の県庁が二ノ丸に置かれ、同年に花畑邸鎮西鎮台(後に熊本鎮台に改めた。)がおかれた。
熊本鎮台が入った頃に、老朽化した櫓、多重櫓は順次破却された。特に西出丸は石垣を取り崩し、郭自体を破却する等西南戦争前には天守・本丸御殿を中心とした本丸主要部のみ保存されていた。
1876年(明治9年)の神風連の乱のときには反乱士族が鎮台司令官種田政明などを襲い城内の砲兵営を制圧したが、1日で鎮圧されている。
西南戦争では政府軍の重要拠点であると同時に西郷軍の重要攻略目標となる。西郷軍の総攻撃2日前、1877年(明治10年)2月19日午前11時40分から午後3時まで原因不明の出火で大小天守など多くの建物(同時に30日間の米、城下の民家約千軒)を焼失した。田原坂の戦いを含む激しい攻防が行われたが、熊本城は司令官谷干城の指揮の下、4000人の籠城で、西郷軍14000人の攻撃に耐え、ついに撃退に成功した。なお、この戦いでは武者返しが大いに役立ち、熊本城を甘く見ていた西郷軍は、誰一人として城内に侵入することができなかったという。
西南戦争後も、時期は不明であるが焼失を免れた竹之丸五階櫓・飯田丸三階櫓が陸軍の手で破却されている。
1884年 城内に午砲台が設置され、空砲による報時業務が始まる(1941年廃止)。
1888年(明治21年)には、熊本鎮台を母体とする陸軍第6師団の司令部が天守台に置かれた。
1933年(昭和8年)「熊本城」(種別:城郭 - 宇土櫓、監物櫓など計13棟)として旧・国宝保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定される[2]。
1933年(昭和8年)「熊本城跡」として国の史跡に指定される。
1955年(昭和30年)「熊本城跡」として国の特別史跡に指定される。
1960年(昭和35年)の熊本国体開催と築城350年を期に、熊本市は一般からの寄付も募り1億8000万円の費用をかけ外観復元で大小天守と平櫓、塀などを再建し、本丸一帯を公園として整備し入場を有料化した。大天守の内部は熊本市立熊本博物館の分館として史料等の展示がされ、最上階は展望スペースとなっている。
2007年(平成19年)築城400年に際して、本丸御殿をはじめ、西出丸の塀、戌亥櫓、元太鼓櫓、奉行丸の塀、未申櫓、南大手門などの建造物を数年かけて復元。なお、未だ復元工事中、工事未着手の建物もいくつかある。
構造
長塀と坪井川
飯田丸五階櫓(木造復元)城郭の形式は、梯郭式平山城。広さは約98万平方メートル、周囲は約5.3キロメートルある。南西の古城と北東の千葉城を取り込み、それらを出丸としている。
南東を流れる白川を外堀に見立て、これに合流していた坪井川・井芹川を切り離して内堀としているため城内にある水堀は飯田丸の西にある備前堀1つのみである。本丸は丘陵の東の最も高い部分に造り全面石垣積みとし、西へゆるやかに下る二の丸・三の丸は重点箇所のみに石垣を築き、経費を抑えた。搦手口のある北は他の方面に比べ、内郭に近接しているので一般的に弱点とされるが、断崖と空堀(現在は道路)に仕切られており突破は困難である。これに対し西は開けており、多少なりとも傾斜も緩い。そのため、西出丸・二の丸・三の丸で区画し防備を固めているが、城郭西端の先に独立した小丘として段山がある。兵力の関係で総構えを放棄した西南戦争ではこの段山を巡る戦いが行われた。
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石垣
清正は特に石垣造りを得意とし、熊本城では、始め緩やかな勾配のものが上部に行くにしたがって垂直に近くなる「武者返し」と呼ばれる形状の石垣を多用している。熊本城で使用されている武者返しは慶長の役の際に難攻不落と呼ばれ朝鮮に築いた蔚山倭城に使用した築城技術を元にしたものである。 上益城郡山都町(旧・矢部町)にある通潤橋は、江戸時代末期にこの熊本城の武者返しの石垣をモデルに架けられた。 江戸幕府の仮想敵であった薩摩藩に対する備えとして建造されているため、南側が非常に堅固(その分北側がかなり手薄)な構造になっている。この構造が西南戦争で薩摩軍の包囲戦をしのぐことができた要因の一つとなっている。 熊本市役所前の石垣は、長さとしては日本最長である。
天守
天守は、連結式望楼型、大天守は5重6階地下1階、「一の天守」とも呼ばれる。小天守は3重4階地下1階、「二の天守」とも呼ばれ、「御上(おうえ)」という夫人のための建物である。 大天守の2重目にあたる部分と4重にあたる部分のものは屋根ではなく廂とするので正確には3重6階地下1階の天守であるが、一般的に5重天守として見られている。萩城天守と同じように天守台から少し張り出す「張出造(はりだしづくり)」で、張り出し部分には石落しが設けられていた。ちなみに、城の北東に清正が建立した豊国廟跡(立田山中腹)と、城の南西の妙解寺跡(花岡山麓)にある細川家の霊廟の2つを結ぶ直線上に天守があるという。
小天守の天守台は大天守に被さるように造られており大天守の天守台石垣の勾配より急角度であり、また天守台と建築物の間には、名古屋城天守と同様に60センチメートル程の「忍び返し」という鉄串が刺してあり、再建とはいえ各所に大天守との建築時期の相違を確認できるという。これには、大天守が1601年に竣工し、10年後、文禄・慶長の役で中断されたのちに増築された[3]、または1594年に計画した際、櫓が重なり合って景観のバランスが悪いということから[4]、現在の位置に変更されたことによるといわれ、細部でも意匠が異なっている。 『肥後宇土軍記』によると関ヶ原の戦いの後、加藤清正は隠居のための城として宇土城を改修したが一国一城令により破却の対象となり、その際に大天守の北側に石垣を新設し建物を移築し小天守としたと記されている。
大天守北側は、創建時には小天守がなく城の北東入り口である不開(あかず)門より本丸西隣の平左衛門丸へと続く通路であった。再建天守の観光入り口の橋下を望むと旧通路の階段が門扉も虎口もなく直に小天守入り口に続く構造を確認することができる。現在は非公開だがこの階段を下ると裏五階櫓跡と小天守の間に旧通路をふさぐように石垣が築かれており、高さ1メートル程の埋門をくぐると不開門へと続く北帯曲輪へ出ることができる。埋門は過去には抜け穴や水抜き穴との説があった。通常は、堀や帯郭の清掃のための通用口として利用されていた[1]。
櫓
建物は、漆喰壁に柿渋塗りの下見板張りの黒い外観が特徴である。天守以外の櫓や門の屋根には反りが少なく破風には直線かむくりが付けられている。多重櫓は全て望楼型である。
五階櫓
往時には現存する宇土櫓のほかに、裏五階櫓、数寄屋丸五階櫓、飯田丸五階櫓、竹之丸五階櫓の4基、本丸東五階櫓は後に三階櫓に改築されたが、大小天守を除く合わせて6基の五階櫓があった[5]。これらの五階櫓は他城の天守の規模に相当する櫓である。これらは慶長年間に毛利藩が作成した熊本城略図に記載のない櫓もあり、一国一城令後に肥後藩領内にあった南関・佐敷・内牧城の天守を移築したものではないかとの説がある。
中でも「三の天守」とも呼ばれる宇土櫓は、3重5階地下1階で、五階櫓の中では最大の櫓である。破風はむくりを持ち、諸櫓と同じ仕様で造られているが、最上階に外廻縁を持つ。清正の創建した初代天守ではないかという見方もある。宇土城の天守を移築したものと伝えられ、明和9年(1772年)に森本一端が記した『肥後国誌』(下巻)によって通説化したが[6]、昭和2年(1927年)の解体修理の際には移築の痕跡が見られず、城戸久などがこの説を否定した[7]。
宇土櫓に関して記された最も古い文献である別井三郎兵衛の『御城分間』寛文6年(1666年)には「御天守西ノ御丸 五階御矢蔵」とあり、寛文年間に作成された熊本城絵図には「平左衛門丸五階櫓」との記載がある。平左衛門丸には加藤平左衛門の屋敷があり、小西氏の家臣であった者の管理をする施設も併設されていたため、平左衛門丸に建てられていた櫓には「宇土三階櫓(平左衛門丸二重櫓)」などのように「宇土」を冠していたことが江戸中期の『肥後録』にあることから宇土櫓も同様の由来で名づけられたのだと北野隆はいう[8]。
竹之丸五階櫓は別名独立櫓ともいわれる。現在櫓跡を見ると、入口の無い櫓台があり別名に相応しそうであるが、往時には元札櫓門を通じて塩櫓・飯田丸三階櫓と一体化した巨大櫓であった。防衛面で見ると竹之丸から飯田丸への連続虎口を櫓の南・西・北面に通し飯田丸三階櫓と挟撃し元札櫓門で侵入を防ぐ南側の重要拠点であった。西南戦争の罹災を免れていたが、戦後にまとめて陸軍により破却されている。宇土櫓が陸軍・市民からの寄付で保存されていたのとは対照的である。何故、宇土櫓が残り、竹之丸五階櫓が破却されたのかは陸軍に資料が残っておらず不明である。